愚かなハッカーたれ、利口なエンジニアよりも

自我と距離をおきたいプログラマの日記

固定観念を持つことの是非

歪んだ固定観念で突っ走ることで限界を超えることもあるし、広い視野を得ようとしたら何をやればいいかわからなくなって迷って停滞することもある。逆に固定観念のせいで違う方向へ進みすぎてしまって、正しい道に戻るのが難しくなったり、戻れなくなる場合もある。固定観念を持つことの是非って難しい。

若い時に固定観念で突っ走って能力開花して、自分の中に芯ができ、そこから自分を省みて視野を広げていくのがいいと思うけど、最初に走り出した方向が間違っていたらどうもならない気もする。

SNS時代だからこそ誰彼構わず繋がるのは良くない

ソーシャルグラフは積み木のようなもので、積み方を間違えると間違った地点まで崩して積み直さなければいけないし、そのまま積み続けると全てが崩れる場合もある。複雑な積み木にしないためにも、誰彼構わず会うのは良くないし、シンプルできれいな形を維持したまま広げるのが望ましい。

東京から地方移住してTwitterfacebookが普及し始めて2年くらい経った時(2012年くらい?)に得た経験。

圧倒的に成功者に見えた二人のセレブの自殺

私はよく知らない人たちですが、今月、二人のセレブが自殺しアメリカでは、驚きと共に連日大きく取り上げられたそうです。

www.businessinsider.jp

ボーデインの自殺が報じられた6月8日、ボーデインと近かったニューヨーク・タイムズのコラムニスト、フランク・ブルーニは、人間の外側の顔と内側で起こっていることのギャップ、公に知られている顔とプライベートな現実の差、見た目のかっこよさと目に見えない痛みについて語り、ボーデインの番組のタイトル通り、まさに「Parts Unknown」ではないかと指摘した。彼はまた、ボーデインの訃報を聞いた多くの友人が同じ言葉を口にしたと言う。それは、「自殺とは最も無縁な人だと思っていた」というものだ。これは、ボーデインの母親の言葉でもあった。

ポジティブなイメージを保つことで、誰にも弱音を吐けず追いつめられたのだろうか。少しググってみましたがボーデイン氏には遺書もなかったようです。弱音を吐けない苦しさは、普通のサラリーマンのお父さんが、家族に相談することなく遺書も残せず、ある日突然命を断つのと変わらないのかもしれない。

実名で自分をさらけ出した方がリターンがあると説かれる昨今ですが、不特定多数の前で身を晒すと誰しも自分を取り繕おうとするものである。そして観客によって勝手にイメージが拡大し、そのイメージのメンテンナンス人になっていく。

フォロワー数万程度のネットの有名人ですら、その取り繕いでしんどい思いをしているのに、世界的に知名度のあるセレブな人達の苦悩たるや自分たちには想像しがたいものがあるのだろう。

だから私は、パブリックなSNSでは匿名動物アイコンでアバターとして割り切ってやることをおすすめする。それが現実の自分と乖離しても精神をすり減らすことはないだろうから。

スマホで動画見ながら仕事に手を付けてやる気を出す

前提の話として、やる気が最初にあるから行動に移すのではなく、行動した結果やる気がでるという認識が大事である。

r25.jp

つまり、まずやるべきことに何でもいいから手を付け始めること。でも、それがなかなかできない時がある。

そこで、最近私が効果的だと思っているのが、スマホでアニメなど見たい動画を見ながら、ついでに仕事をする形を取ること。これだととても取り掛かりやすい。そして、実際に手を動かしているうちに、やる気が出てくるのだ。

やってみると動画見ながら仕事ってそれほど難しくなくて、やる気が出始めたら見るのをやめるわけではなく、ずっと見ながら仕事していることも最近多い。けど、それほど仕事のパフォーマンスが下がっているように感じない。むしろ、仕事だけやってると集中力が切れた時、やる気がなくなってそのまま仕事をやめてしまうことがある。

ただし、英語+日本語字幕の映画は難しい。字幕見ないといけないから仕事に集中しにくい。

物の価値が下がり続けると最終的にはお金の価値も下がる

通常は物とお金の価値は相対的な関係にあって、物が安くなるとお金の価値が上がることになる。今まで1000円で売られていた物が500円になると、その物に対するお金の価値は実質2倍になる。

しかし、あらゆるものが安くなると(コモディティ化)、生活にかかるコストそのものが減る。そうするとそんなにお金を稼がなくても満ち足りた生活を送れるようになる。他者との比較や自己承認欲求を満たそうとしなければ。

あらゆるもののコモディティ化は、必要なお金の総量を減らしていくから、結果、お金の価値を下げていく。徐々にそのフェーズに入ってきていると感じる。

広く弱い人間関係がもたらす奇妙な安心感

佐々木俊尚氏の広く弱くつながって生きるを読みました。この数年で得た感覚から共感できることが多い内容でした。

広く弱くつながって生きる (幻冬舎新書)

広く弱くつながって生きる (幻冬舎新書)

 

私も著者と同じくいずれは複数の街に住まいを持ち、多拠点生活をしようと思っているのですが、 今は家庭の事情もありできていません。宿泊も難しいです。しかし、時間さえあれば、住んでる街と違う街へ出かけるようにしています。そして、飲食店で働いている人と顔見知りになってInstagramなどで繋っていきます。(地方はたいてい初対面でもすぐ繋がれます)

そして、かれこれ2年近くそうしていると、住んでる街から電車で1時間圏内の各街で知り合いができました。私はInstagramで行く店行く店で食事の写真や動画をアップしているので、みんなに各街の飲食店の情報をシェアする形になっています。次会った時も知り合いのお店に行ってましたねとか、あの店気になっていたんですよと話もしやすい。

彼らのほとんどは一緒に遊ぶほどの仲になっているわけではないし、困った時に頼りになるとも思わないのですが、いろんなところに知り合いがいると「どこででも誰とでも繋がれるし、どうにか生きていけるよな 」という奇妙な安心感が生まれてきます。まさに同じことが、この本の中で書かれていました。

そういう安心感からくる余裕があると、ネガティブな感情を抱え込まなくなっていきます。多少嫌なことがあっても、住んでる街を離れて別の街で酒を飲み、久々に会う人と話していれば忘れてしまいます。

住んでいる街から動かず固定化された人間関係の中でいると、ささいな価値観の違いや環境がもたらす不遇さにばかりフォーカスして、心の中で問題を過大視するようになっていく。移動する習慣を持つと、このことに俯瞰的に気付くことができます。

また毎回違う街で違う人と会っていると、誰といつどこで何を話したか細かく覚えなくなります。そうすると思考の沈殿がおこりにくくなる。あの時、ああ言ってしまったけど気分を害さなかったかとか(たいてい相手は気にしてない)、彼のあの考えは納得がいかないとか、そういったことを考えなくなる。移動中に嫌な感情もどこかへ置いていくような感覚になる。

人それぞれとはよく言うけど、それが頭の中だけでなく皮膚感覚で持てるようになる。全てにおいてわかり合える人はいないことが当たり前と思えるようになり、多少の考えの違いがあってもスルーできるし、議論みたいなこともしなくなる。

広く弱いつながりばかりになると、心底わかりあえる人がおらず孤独感や不安感が増すように思う人も多いと思うけど、自分の中には全く逆の感覚がある。今日の気分で話したい事がある時は、その話ができる人と会えばよい。知り合いが多いとそういう選択権ができる。そうすると結局、気が合う人とだけ話しているのと同じ状況になるのだ。完全に気が合う一人を探すより、こっちのほうがはるかに実現は容易である。

そして彼らはみな違う人間なので、自分が知らないことを聞く機会もある。同じ人とは続けて会わないようにしているので、数ヶ月ぶりに会う人も多い。だから、いつも新鮮さがあるし、お互いに楽しくしていられるのだ。