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愚かなハッカーたれ、利口なエンジニアよりも

地方でフリーでプログラミングスキルで生きていく

サピエンス全史を読了。想像上の秩序によるサピエンスの繁栄と未来。

遅ればせながら世界各国で話題となったというサピエンス全史を読み終えました。面白い内容でしたが、「全史」という邦題から想像する内容とはややズレがあるように思いました。原題は単に「サピエンス」のようです。 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

個人的には「想像上の秩序によるサピエンスの繁栄と未来」といった内容だと思います。繁栄より繁殖の方が適切かもしれません。繁栄と書くと人類が進歩した印象を与え、それは著者の見解と違います。

本書では10万年くらい前まで、我々サピエンス以外にも少なくとも6種の人類(ネアンデルタール人など)がいたであろうとから、人間や人類という言葉を使うのを避け、我々人類のことを「サピエンス」という表現を使っています。

全史というタイトルと内容が違って思えたのは、サピエンスはアフリカで突然変異により生まれ、その後、幾年もかけて世界各地に広がったという、いわゆる人類史的な話は序盤でほぼ説明されてしまうからです。

残りはサピエンスが実在しないものを想像し、それを集団で信じるという他の生物にない能力を元に繁殖をし、繁殖の過程で幾多の生物、ネアンデルタール人などサピエンス以外の人類をも絶滅に追いやったであろうこと。さらには幾多の同じサピエンス=先住民と称される民族(みな先祖は同じだが)も絶滅に追いやってきたこと。宗教、紙幣といった虚構を元にした文明の発展は、必ずしも個人の幸福度に貢献してきたわけではない。といった話が主体となっています。

文明の発展により犯罪も戦争も減少傾向にあるなど肯定的な見解もありますが、全般的にはサピエンスのこれまでの所業について否定的な見解に傾いているように思えました。人によっては読んだ後、あまり良い気分にはならないかもしれません。

それでもこの本を読むことで、いかに自分たちが虚構の中で生きているか俯瞰的な視点で物事を見ることができ、現代社会のいろいろな縛りの中で生きている息苦しさから解放される心地よさもあると思います。

著者の視点は、すべては人間の認識による色付けであり、それらは実体のない虚構(空)であるという仏教の色即是空に通じるものがある。産業革命は個人の幸福度に貢献したか?幸福とは何か?という問いの中で、著者自身が仏教の考えにも触れています。

生物学的にも人間の幸福度は外部の条件によって決まらないのは明らかである。だから内なる感情に耳を傾けるべきだと生物学者やニューエイジ運動は説くが、ブッダの洞察の方がより深淵だと著者は言う。結局、自分の感情に重きをおけば、よりそれを求めるようになり苦しみも増す。ブッダの教えは内なる感情の追求をもやめることだったと、仏教に対する理解を示している。

これは以前から私も深く同意するところである。近代になって脳が意識を作り出すとか、セロトニンが幸福を演出するといったことがわかり、ようやく外部の条件は幸福と関係ないと自分のような凡人含め多くの人が理解できるようになったのだが、2000年も前にブッダは答えをだしていた。驚異的としか言いようがない。著者も同じように感じていることが見て取れる。

対して著者は神は妄想であると述べており、その存在の可能性を全く認める様子がない。ドーキンスの著書「神は妄想である」と同様に、一神教の文化圏の中で育った人が進化論を語る時は、手に取る人々のことを意識してか、神の存在を否定する内容にページを割かなければならないのかもしれません。

また、自然選択によらず自らの意志によって生物を作り出す存在は、サピエンス自身がなるのであり、サピエンスより上位の存在=神もサピエンスの手によって作られるのだとも。遺伝子操作によって。そして、その存在がサピエンスを絶滅に追いやるかもしれないと。かつて、サピエンスが様々な種を絶滅させたように。

神の召喚は自分たちの絶滅の危険性があるとわかっていても、そのパンドラの箱を開けたい誘惑にサピエンスは勝てないのだろう。想像力を糧にした飽くなき探究心こそが、地球上の取るに足らない一生物をここまでの存在にしたのだから。 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

Kindleなら上下巻合わせたものを読めますよ!自分もそれで読みました。

仏教の無常や無我はどう道徳とひもづくのか

何らかの理由で、あの世での報いを信じなくなり、現世での道徳をも見失いそうになったら、何を道徳の基準にすればよいのだろう。答えの1つは仏教にあると思う。

大乗仏教には仏教が他の宗教と異なる立場を示すものとして三法印というものがある。

三法印 - Wikipedia

三法印は文字通り三つの教えを示す。Wikipediaの記述によると、初期仏教には類似の概念はあったが三法印という言葉はなく、大乗仏教でのみ用いられるものらしい。しかし、個人的にはこれこそ仏陀の悟りの重要な部分を端的に表しているものではないか思う。以下、三法印について簡単に説明する。

  1. 諸行無常。世の中は移ろい変わっていくものである。人の心も環境も変わっていく。不変のものは何もない。以下、単に無常と言う。
  2. 諸行無常。あらゆるものは他の何かとの相対関係の上で成り立っている。単独で成り立っているものは何もない。すなわち人間の我=自意識も他者との相対によるもので実体はない。以下、単に無我と言う。
  3. 涅槃寂静。無常と無我を知らないから、人は誤った認識により苦しみから逃れられない。無常と無我を理解し、正しく物事を捉えられるようになれば、苦しみから逃れられる。

学校で歴史を習い、脳科学、遺伝子、心理学の本を少しでも読んだことがあるなら、無常と無我は世の中の揺るぎない真理だとわかるだろう。

しかし、仏教は宗教を名乗る以上、単に真理を説くだけでなく、道徳とひもづかなければならないのではないか。無常や無我は真理ではあるが、道徳心とひもづくのだろうか?なぜ大乗仏教三法印を他の宗教と異なる立場を示すものという重要な位置づけとしたのか。

自分がこの問いに明確な答えを得たのは、母親が脳梗塞で入院した時だった。母親の様子がおかしいと救急車を呼ぶと5分で家に到着した。家からすぐに市民病院に運んでもらい、緊急患者としてすぐに脳をスキャンし脳梗塞だと判明し、迅速な処置を受けることができた。おかげで後遺症は軽微で済んだ。

入院治療の後、院内の相談所を通してリハビリ専門の病院を紹介していただいた。リハビリが終わる退院前に、退院後のかかりつけ医やケアワーカーの紹介をしていただいた。地方都市であれ、病院への搬送から入院、退院後の生活のサポートまでの流れができていることに非常に感心し感謝した。

そして、これらは過去から現在へと先人たちの善意が受け継がれたことで成立しているシステムなのだと理解した。もし自分が呪術的思考をする人間だったなら、自分の祈りによって母親は救われたと思うだけだったかもしれない。先人たちや社会へ感謝の念は生まれなかったかもしれない。

人、人、人。人の善意の積み重ねの上で、自分たちは今の社会を生きている。無常と無我を基本として物事を考える習慣があったから、先人と社会に対する感謝の念が生まれ、また自分も社会に何か貢献したいという意識が芽生えたのだ。

無常と無我の概念は、神様の存在やあの世の報いという概念抜きに道徳心を抱く理由付けになる。(神を信仰する人間はすべて不道徳という意味で言っているのではない。そういった信仰以外にも道徳とひもづく可能性があるという話である)

もし、あなたが何かを理由に神やあの世の存在を信じられなくなり、道徳を守る理由をも見失いそうになったら、まず脳科学や進化論の本を読み、それから仏教の無常と無我について考えてみるといいと思う。そこに救いがあるかもしれないから。

かつてないほどに性欲について深く切り込んだ「性欲の科学」

性欲に関することは、あまり公では話さないし、情報を集めようにも恥じらいから嘘をつくこともある。また性欲について語ることも、情報を集めることも社会的タブーになりやすい。

性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか

性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか

 

しかし、インターネット上での性欲を満たすための検索キーワード、特にポルノサイトでの検索ワードを解析すれば、人々の性的嗜好の実体を正確にとらえることができる。本書はそのようにして、脳科学や進化論も交えて、性欲についてかつてないほどに掘り下げて解説している。

本当にいろいろ興味深いことが論じられていて、子供の頃から親が女の子と信じて育てれば、肉体的に男でも女性のようになるのか?また、少年期に同性のアレを加える風習がある地域では、ゲイになる割合は高いのか。結果はそうはならない。ほぼ性欲を抱く相手が異性か同性か両方かは、本能的に決まっているらしい。

ただフェチに関してはロングテールを描き、個人差が見られる。男性なら誰しも想像する通り世界共通で若さと巨乳が大人気である(笑)それはロングテールの頭の方で、そこから尻尾に向けては多種多様なフェチを示す。 このフェチに関してはどうやら少年期の刷り込みによって決まるらしい。病院で看護婦にアソコをいじられて勃起してしまった人は、以来、病院のベッドに座るたびに条件反射的に勃起してしまう人もいるとか・・・

素人モノが人気なのは若さだけでなく、内容はソフトなものであれプロでない色んな子が次々と出るのが、新しいもの・本物志向好きな男性の嗜好に合うかららしい(これも本能的なものである)

あと多くの男性は若い子好きだが、それに次いで熟女も好きらしく検索ワードでも人気ジャンルとか。このジャンルを海外ではミルフ(MILF)というらしい。Mother I’d like to f**kの略だそうです・・・その他、乳輪の大きさの嗜好は国ごとに異なる、足フェチ(小さい足を好む)の由来は妊娠期に女性の足が大きくなる傾向があることと関係があるのではなど、事細かに調査や考察がされています。

男性の性欲のことばかり書きましたが、女性の性欲についても論じられています。なぜ女性は男性より性欲が少ない傾向にあり、厳しい品定めをするのかについて随所に考察があります。そして 、意外なことにこの本の翻訳は女性なのです。本書の翻訳にたずさわるまで男性にはお馴染みの単語も知らなかったことなど、あとがきの感想も面白いです。

というか、素人モノが好きだとか月額課金してることをカミングアウトすると、周囲の人は笑ったり、あえて興味深そうに聞いたりするけど、本当はみんなコッソリ入ってるんだろう?嘘はやめよう!これを読んで思ったけど、自分の性的嗜好は極めて最大公約数的なノーマルなものだとわかりました!

性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか

性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか

 

Kindle端末は必要か?スマホ+Kindleアプリで十分?

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自分はKindle端末とスマホ両方あるほうが便利だと思っています。理由はこのように左手でKindleを持ちページをめくり、右手でスマホを持ち要点をEvernoteへ書き出すことができるからです(笑)Kindleスマホもそれぞれ両手に持っても十分な軽さなので、ページめくりとフリック入力を同時に行えます。

習慣と依存症って本質的に同じじゃないだろうか?

昼過ぎにカフェでコーヒーを飲むことを習慣づけたら、それを実行しないと落ち着かなくなった。そして、カフェへ行くために集中して仕事を片付けるようになる。カフェでは1時間読書する。

結果、日々の仕事のアウトプットは確実に増え、読書の時間も確保できるようになった。人間、慣れた生活ルーチンで、他のことをやる余裕がないと言いつつ、どこかで手を抜いているものだ。

カフェへ行く習慣は良い習慣だけど、やらないと落ち着かない。アル中の人がお酒を飲まないと落ち着かないのも、結局同じじゃないだろうか?

人類は長い間、身分階級が固定化された封建社会にいたし、何百年、何万年と環境が変わらない環境にいた。だから、日々のルーチン化された生活に疑問を持たず、肯定的に続ける遺伝的形質を持った者が、優先的に自然淘汰で子孫を残し続けたのではないか。

日々同じ行動を繰り返すことで、それをやらないと落ち着かなくなる脳の習性を利用して、良い習慣を依存症にしたい。

ハングリー精神は食うに困らなくなったら消えるモチベ。だから、やりたいことをやるしかない。

40代になって気がついたのは、お金を稼ぐことや、誰かを見返してやりたいとか、偉くなりたいという自己承認欲求などは、ずっと抱いていられるモチベではないということだ。

若い時は本当にお金がなくて、自分の能力が社会で通用して、きちんと自立して生活していけるかに不安があるものだ。また、学生時代に成績が良くなかったり、異性にモテなかったりして、コンプレックスを抱く人も多いだろう。

だから若い時はお金を稼ぎたい、偉くなりたい、異性にモテたいといった、わかりやすい動機で突っ走れる。そうやってあまり道徳性の伴わない動機であれ真面目に働いていれば、30代になるころには人並み以上に食える収入に到達できてしまうだろう。

中には自信がついたことからモテるようになる人もいるだろうし、結婚して家庭を持ちモテることに執着しなくなる人もいるだろう。また仕事ができるようになっても、モテない人はモテないし、モテたいという気持ちは仕事のモチベと切り離されてくる場合もあるだろう。

今やネットとスマホさえあればいくらでも時間を潰す娯楽はあるし、そんなに稼がなくても楽しくやっていけることに気づく。偉くなったらなったで収入は増えてもライフワークバランスが崩れるし、面倒な人付き合いも増える。モテたい願望が薄く独身のままでいいと思う人なら、そこそこの収入で気持ちが落ち着く人も多いだろう。

でも、あの時の熱い気持ちはどこへいったのか?ともやもやとした葛藤は消えない。そして情熱を取り戻そうと、またお金や自己承認欲求に執着しようとする。でも結局、それではモチベーションは取り戻せないのだ。

金欲や自己承認欲求が満たされたり薄まった後も、ずっと続けてきた仕事はやっぱり楽しかったりする。生活に余裕ができたことで、趣味という形で新しいことを好きになっていたりする。ハングリー精神を取り戻すことはやめて、そういったことに目を向け、そこからモチベを作り出すべきなのだ。

ハングリー精神を失ったあとは、やっぱり好きなことをやるしかなくなるのだと思う。そして、それこそが永続的なモチベーションになる。

生活がルーチン化すると、とてつもなくショボい事を恐れるようになる

失敗を恐れるなって言うと、何か大きなリスクを背負う事を意味してるように聞こえるけど、何かをやろうとするのをためらうのって、大抵は人から見たらリスクと思えないようなちっぽけなことだったりする。

破滅的な経済的損失、大事な人からの信頼喪失。修正困難なほどに人生にダメージを与えるようなリスク。そんなリスクを冒さねばならない決断なんか、人生にそう何度もないだろう。なぜ人はちっぽけな失敗すら恐れるようになるのか。

人間の脳は新しい環境に適応する柔軟性を持っているけど、一度適応すると今度は脳が今いる環境が世界のすべてのように認識し始める。そういう働きのない脳を抱えた人たちは、かつての変化に乏しく階級化された社会では子孫を残せなかっただろう。

生活がルーチン化されると、小さな変化すら恐れるようになるのは、本能的な自己防衛なのかもしれない。しかし今は自由で変化が激しい時代だ。変化しない事のほうがリスクである。変化を受け入れる脳の柔軟性の方を拡張したほうが自己防衛になる。

生活がルーチン化すると、自分のちっぽけな自尊心に引っかき傷がつくことや、月の小遣いが数万減るとか、とてつもなくショボいことを恐れるようになる。でも、その恐れが自分を停滞させ、変化に順応できなくさせていく。だから、動く習慣を身につけて生活をルーチン化させないこと、ちっぽけなことを大事のように思わせる脳の錯覚を弾き飛ばすことが大切。

暖かくなって動きやすくなってきたので、またどこか見知らぬ街へ行き、見知らぬ人と話そう。

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熊野市駅で撮影