愚かなハッカーたれ、利口なエンジニアよりも

地方でフリーでプログラミングスキルで生きていく

なぜネット上に嘲笑的カルチャーが蔓延するようになったのか

やっぱあの人 or サービスだめだったよねという失敗を笑う文化がネットに根付いて久しい。2ちゃんは古くからそうだし、Twitterもそういう文化が根付いている。

これはコミュニティに何もコミットしてなさそうな匿名の人だけでなく、数万のフォロワーを抱える著名な人ですら、嘲笑的ツイートをする人は多い。そして、そのツイートがRTやいいねを集めたりする。

この傾向について今の10代〜20代前半の物心ついた頃からネットがあったデジタルネイティブ世代には、上の世代のこのメンタルがわかりにくいのでないかと思う。なので、アラフォーのおっさんなりに時代背景を振り返りつつ分析してみる。

ネットに嘲笑的カルチャーが根付いた1つの大きな原因は、インターネットはスクールカーストで下の方にいた人々のカウンターカルチャーだったからだと思う。

現在、40代の自分が小学生高学年頃にファミコンという初めて広く家庭に普及した家庭用ゲーム機があった。自分たち子供の間で流行りはしたが、ファミコンばかりしているような人間はコミュ力の低いヲタクという嘲笑的称号が与えられた。

だから、みんなやっているのに、おおっぴらにファミコン大好き!とは言えないような空気があった。スクールカーストの上の方は野球、サッカー、バスケなど体育会系で、ファミコンなんかに本気でハマっているのは、スポーツが苦手で軟弱で決して学校社会でヒーローになれる存在ではないという位置づけだった。

自分が高校生になった時、パソコンを買ってもらったのだが、親しい友人以外には隠していた。なぜならヲタク呼ばわりされるのが嫌だったからだ。ヲタクという表現には、現在のそれより遥かに嘲笑的な意味合いが含まれていた。

大学に入ってゲームプログラマの道を目指し、本格的にプログラミングに打ち込むと決意した時、リア充社会との決別を意味した(当時、リア充という言葉もなかったが)。プログラミングの話ができる人間はスクールカーストの下の方にしかおらず、そこに同化したくないなら孤立を意味した。

思うに今のアラフォー世代には、かつてスクールカーストの下の方にいて、屈折した感情を抱いた人々が、インターネットの台頭と共に社会に出てから中流以上の存在にのし上がったケースが多いと思う。

だから、こういう人たちは他人に寛容さがなく、他人の失敗に厳しい。少しでも他人の無知を見つけると、そんなことも知らないの?と嘲笑的な態度を取る。今では当たり前となった知識や知恵をシェアするという概念からも遠くにいるように思う。

彼らに見られる特徴は、人の失敗に対してコメントやRTはするが、自分ではほとんど生産的なアウトプットはしないことだ。高い知性を持ち専門分野で深い知識を持つが、それを生産的なことに使うよりは、他人の間違いを指摘し正し嘲笑することに使う。実際にそれはフォロワー数万規模の人なら完璧に正しかったりする。

そういった嘲笑的コンテンツは、表面上、社会問題を取り上げているように見えるが、実際、本人がその問題にコミットして、その環境で虐げられている人々を救う意志も使命感もないと思う。

むしろかつて自分を馬鹿にしたような連中が地に落ちてざまぁみろと、そのまま不幸でいてほしいのではないかと思う。ゆえに嘲笑的なのだ。そして自分はそういう嘲笑的コンテンツが嫌になった。

確かに自分もプログラミングのスキルを身につける過程に、馬鹿にした連中を見返したいという気持ちがあったの確かだ。けど、やっぱり自分は生産的なことに自分のスキルを使いたい。綺麗事じゃなくポジティブな動機でないと、これ以上、プログラミングを続けていくモチベを保てそうにないからだ。愛するプログラミングを汚れたモチベで汚したくないのだ。人間は相変わらずそんなに好きではないけど。

ルーチン化した生活が自分の首も絞めつけ他人にも息苦しさを強要する

ルーチン化した生活を続けていると、同じことばかり考えるようになり、些細な変化にストレスや苛立ちを感じるようになる。例えば、家族の誰かが自分の意図しない場所に物を置いたとか、飲食店に入ったらバイトスタッフの口調が気に食わなかったとか。

ルーチン化された生活による安心感。それは同時に異なる生活パターンを持つ他人や、彼らによって作られる外部環境に対する寛容さを奪っていく。外部がもたらす変化を無理くりに自分の秩序に合わせようとするから、ストレスが蓄積していく。自分で自分の首を絞めているようなものだ。

そして他人に対しても自分のルールを道徳、正義を盾にして押し付けようとする。それは束の間の秩序を持たらすかもしれないが、他人の首を絞めているし、束の間の秩序は再び混沌をもたらし、また自分の首を絞めつける。その混沌は他人や外部環境がもたらすもののように錯覚するが、実際は自分の同じ思考のループによる不寛容さがもたらすものだ。

対してルーチン化した生活をやめ、常に変化を取り入れるようにすると、世の中には色んな人がいて、自分と合う人もいれば合わない人もいる。誰と付き合い、誰と付き合わないかは自由に選択できる。仕事だっていつでもやめられるし、新しい仕事はどこかにある。といったことが理屈ではなく経験で理解できるようになる。そうすると些細なことはだんだん気にならなくなる。

息苦しいと感じるなら、まずルーチン化した生活を変えよう。それは別にハイパーノマドになれという非現実的な跳躍をすることではない。電車で1時間先の街で飲み歩くことを週1の習慣にするとか、そんな些細な変化でも十分に効果はあるのだ。世界は自分の認識が作り上げる。認識が変われば世界は変わる。色即是空。

ハイパーノマドにならなくても、生活をルーチン化させない意識を持つだけで、狭い視野から解放される

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

ハイパーノマドにならなくても、生活をルーチン化させない意識を持つだけで、狭い視野から解放される

会社員なんかやめてしまえ、日本を出て旅に出よう。今の時代どこへでも生きていける。そうはいってもノマドになることは多くの人にとって難しいことだろう。家族がいればなおさらだ。

自分も物忘れが増えた高齢の母親と暮らしていて、1日留守にして1人にしておいてよいかというとやや不安である。なかなか外泊することはできないし、海外もここ数年行けていない。

気ままな在宅勤務とはいえ、今までほど自由に動けなくなり、同じ生活ルーチンにハマるようになると、思考のパターンが固定化されていく。これは良くない!と少しでも生活ルーチンを変えることを心がけるようにした。

まず住んでいる街の行きつけのお店へ行く代わりに、電車で1時間以内で行ける街のお店を開拓する習慣をつけた。そしてその店の人と話す。これくらいなら泊まりでなくてもできることだ。確かに電車代がかかるし、近くの店で飲んだほうが安上がりなのだけど、それでもお金払って普段行かない街で飲んだり話したりすることは、思った以上の効果があった。

同じ県内のたかだか電車で1時間程度の範囲内でも、それぞれ街並みが違ったり、並ぶお店の傾向が違ったりする。地方だからこそ変に都市化のメスが入らず、その土地の風土が残っていたりする。そして一見さんにもだいたい気さくに話してくれる人ばかりだ。

そうやって少しでもルーチンから外へ抜けると精神的な解放を得られる。いろんなところにいろんな人がいて、気が合う人もいればいない人もいる。自分は面倒な人付き合いはしない方だし、こういうことも理屈でわかっているけど、実体験が欠けるようになると、ルーチンの人間関係にハマるようになっていた。

あとは私が住んでいる三重県は伊賀、志摩、伊勢と観光地があり、これらの街にはレンタサイクルがある。そのレンタサイクルでぶらぶらして、その土地の自然を眺めるのも、またルーチンからの解放を感じる。

県内の移動は、初めて行く国で異なる人々の生活様式や風景を見て帰ってきた時ほどの大きな精神的解放は得られないが、それでも同じ街でルーチンの中にいるよりはずっと精神的解放を得られる。

ほとんどの人にとって海外旅行なんて年に1回行ければ良い方だ。それでたまに大きな精神的解放を得るよりは、県内弾丸ツアーを月数回でやって小さな精神的解放を安定して得続けるほうが良いかもしれない。

佐々木俊尚さんが東京、軽井沢、福井の3拠点生活をしていて、人のネットワークの広がりを感じると述べているけど、同じようなことを自分も感じている。自分もいずれ三重県内で3〜4拠点(伊勢、伊賀、志摩、熊野)構えたい。すでに県内の料理人気質な飲食店の人々をつなげるネットワークを作りに着手している。

ハイパーノマドもいいけど、狭く深くの県内ノマドもそれはそれで面白そうだ。

エビデンスも大事だけど真実は空想の先にある

2016年世界各地で話題となったサピエンス全史によると、想像するという能力は人間(サピエンス)のみに宿るものらしい。そして、その想像を他人と共有し信じることで、アフリカで生まれた一生物に過ぎなかったサピエンスは全世界へと繁殖したのだという。

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

人間の想像は多くの実在しない空想を生み出し、それが社会秩序となった。お金はその最たる例だろう。また産業革命が起き義務教育が普及する前までは、現代では考えられないようなおかしな習慣や儀式が正しいことと信じられ、理不尽な仕打ちにあった人々も多い。

しかし人間は想像することなくして真実を知ることもなかっただろう。ダーウィンは航海の中で生物の進化を想像した。そして進化という現象は真実で、後世で遺伝子の発見に繋がり、すべての人間のルーツはアフリカにあることもわかった。

想像する能力を持たない他の生物は、選民思想という妄想から同じ種を大虐殺するようなことはしないが、自分たちの思考が遺伝子によって制御されていることを想像することもしない。だからこの思考は本当に自分のものか?遺伝子による本能的なものか?という想像もしないし、仏教の色即是空も理解できないし、真実を知ることもない。

まずは想像して仮説をたてること。そしてバイアスがかからないことを意識して熟考すること。それが真実へたどり着く道である。昨今、まずエビデンスを出せという話になりがちだけど、頭に浮かんだ妄想を阻むだけでは今の枠組みの中でしか生きられない。

広告収入目当てのフェイクニュースは明らかに害悪をもたらすものだろうけど、想像を口にだすこと自体は悪いことじゃないはずだ。それに対する寛容さがなくなるのは良くないことだと思う。

サピエンス全史を読了。想像上の秩序によるサピエンスの繁栄と未来。

遅ればせながら世界各国で話題となったというサピエンス全史を読み終えました。面白い内容でしたが、「全史」という邦題から想像する内容とはややズレがあるように思いました。原題は単に「サピエンス」のようです。 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

個人的には「想像上の秩序によるサピエンスの繁栄と未来」といった内容だと思います。繁栄より繁殖の方が適切かもしれません。繁栄と書くと人類が進歩した印象を与え、それは著者の見解と違います。

本書では10万年くらい前まで、我々サピエンス以外にも少なくとも6種の人類(ネアンデルタール人など)がいたであろうとから、人間や人類という言葉を使うのを避け、我々人類のことを「サピエンス」という表現を使っています。

全史というタイトルと内容が違って思えたのは、サピエンスはアフリカで突然変異により生まれ、その後、幾年もかけて世界各地に広がったという、いわゆる人類史的な話は序盤でほぼ説明されてしまうからです。

残りはサピエンスが実在しないものを想像し、それを集団で信じるという他の生物にない能力を元に繁殖をし、繁殖の過程で幾多の生物、ネアンデルタール人などサピエンス以外の人類をも絶滅に追いやったであろうこと。さらには幾多の同じサピエンス=先住民と称される民族(みな先祖は同じだが)も絶滅に追いやってきたこと。宗教、紙幣といった虚構を元にした文明の発展は、必ずしも個人の幸福度に貢献してきたわけではない。といった話が主体となっています。

文明の発展により犯罪も戦争も減少傾向にあるなど肯定的な見解もありますが、全般的にはサピエンスのこれまでの所業について否定的な見解に傾いているように思えました。人によっては読んだ後、あまり良い気分にはならないかもしれません。

それでもこの本を読むことで、いかに自分たちが虚構の中で生きているか俯瞰的な視点で物事を見ることができ、現代社会のいろいろな縛りの中で生きている息苦しさから解放される心地よさもあると思います。

著者の視点は、すべては人間の認識による色付けであり、それらは実体のない虚構(空)であるという仏教の色即是空に通じるものがある。産業革命は個人の幸福度に貢献したか?幸福とは何か?という問いの中で、著者自身が仏教の考えにも触れています。

生物学的にも人間の幸福度は外部の条件によって決まらないのは明らかである。だから内なる感情に耳を傾けるべきだと生物学者やニューエイジ運動は説くが、ブッダの洞察の方がより深淵だと著者は言う。結局、自分の感情に重きをおけば、よりそれを求めるようになり苦しみも増す。ブッダの教えは内なる感情の追求をもやめることだったと、仏教に対する理解を示している。

これは以前から私も深く同意するところである。近代になって脳が意識を作り出すとか、セロトニンが幸福を演出するといったことがわかり、ようやく外部の条件は幸福と関係ないと自分のような凡人含め多くの人が理解できるようになったのだが、2000年も前にブッダは答えをだしていた。驚異的としか言いようがない。著者も同じように感じていることが見て取れる。

対して著者は神は妄想であると述べており、その存在の可能性を全く認める様子がない。ドーキンスの著書「神は妄想である」と同様に、一神教の文化圏の中で育った人が進化論を語る時は、手に取る人々のことを意識してか、神の存在を否定する内容にページを割かなければならないのかもしれません。

また、自然選択によらず自らの意志によって生物を作り出す存在は、サピエンス自身がなるのであり、サピエンスより上位の存在=神もサピエンスの手によって作られるのだとも。遺伝子操作によって。そして、その存在がサピエンスを絶滅に追いやるかもしれないと。かつて、サピエンスが様々な種を絶滅させたように。

神の召喚は自分たちの絶滅の危険性があるとわかっていても、そのパンドラの箱を開けたい誘惑にサピエンスは勝てないのだろう。想像力を糧にした飽くなき探究心こそが、地球上の取るに足らない一生物をここまでの存在にしたのだから。 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

Kindleなら上下巻合わせたものを読めますよ!自分もそれで読みました。

仏教の無常や無我はどう道徳とひもづくのか

何らかの理由で、あの世での報いを信じなくなり、現世での道徳をも見失いそうになったら、何を道徳の基準にすればよいのだろう。答えの1つは仏教にあると思う。

大乗仏教には仏教が他の宗教と異なる立場を示すものとして三法印というものがある。

三法印 - Wikipedia

三法印は文字通り三つの教えを示す。Wikipediaの記述によると、初期仏教には類似の概念はあったが三法印という言葉はなく、大乗仏教でのみ用いられるものらしい。しかし、個人的にはこれこそ仏陀の悟りの重要な部分を端的に表しているものではないか思う。以下、三法印について簡単に説明する。

  1. 諸行無常。世の中は移ろい変わっていくものである。人の心も環境も変わっていく。不変のものは何もない。以下、単に無常と言う。
  2. 諸行無常。あらゆるものは他の何かとの相対関係の上で成り立っている。単独で成り立っているものは何もない。すなわち人間の我=自意識も他者との相対によるもので実体はない。以下、単に無我と言う。
  3. 涅槃寂静。無常と無我を知らないから、人は誤った認識により苦しみから逃れられない。無常と無我を理解し、正しく物事を捉えられるようになれば、苦しみから逃れられる。

学校で歴史を習い、脳科学、遺伝子、心理学の本を少しでも読んだことがあるなら、無常と無我は世の揺るぎない真理だとわかるだろう。

しかし、仏教は宗教を名乗る以上、単に真理を説くだけでなく、道徳とひもづかなければならないのではないか。無常や無我は真理ではあるが、道徳心とひもづくのだろうか?なぜ大乗仏教三法印を他の宗教と異なる立場を示すものという重要な位置づけとしたのか。

自分がこの問いに明確な答えを得たのは、母親が脳梗塞で入院した時だった。母親の様子がおかしいと救急車を呼ぶと5分で来てくれた。家からすぐに市民病院に運んでもらい、すぐに脳をスキャンしてもらい脳梗塞と診断され、脳に溜まった血を薬で溶かすなど、迅速な処置を受けることができた。そのおかげで後遺症は軽く済んだ。

入院治療の後、院内の相談所を通してリハビリ専門の病院を紹介していただいた。リハビリが終わる前には、退院後のかかりつけ医やケアワーカーの紹介をしていただいた。地方都市であれ、病院への搬送から入院、退院後の生活のサポートまでのパイプラインがしっかりできていることは驚きだった。

そして、これらは過去から現在へと先人たちの善意が受け継がれたことで成立しているシステムなのだと理解した。もし自分が呪術的思考をする人間だったなら、自分の祈りによって母親は救われたと思うだけだったかもしれない。先人たちや社会へ感謝の念は生まれなかったかもしれない。

人、人、人。人の善意の積み重ねの上で、自分たちは今の社会を生きている。無常と無我を基本として物事を考える習慣があったから、先人と社会に対する感謝の念が生まれ、また自分も社会に何か貢献したいという意識が芽生えたのだ。

無常と無我の概念は、神様の存在やあの世の報いという概念抜きに道徳心を抱く理由付けになる。(神を信仰する人間はすべて不道徳という意味で言っているのではない。そういった信仰以外にも道徳とひもづく可能性があるという話である)

もし、あなたが何かを理由に神やあの世の存在を信じられなくなり、道徳を守る理由をも見失いそうになったら、まず脳科学や進化論の本を読み、それから仏教の無常と無我について考えてみるといいと思う。そこに救いがあるかもしれないから。

かつてないほどに性欲について深く切り込んだ「性欲の科学」

性欲に関することは、あまり公では話さないし、情報を集めようにも恥じらいから嘘をつくこともある。また性欲について語ることも、情報を集めることも社会的タブーになりやすい。

性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか

性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか

 

しかし、インターネット上での性欲を満たすための検索キーワード、特にポルノサイトでの検索ワードを解析すれば、人々の性的嗜好の実体を正確にとらえることができる。本書はそのようにして、脳科学や進化論も交えて、性欲についてかつてないほどに掘り下げて解説している。

本当にいろいろ興味深いことが論じられていて、子供の頃から親が女の子と信じて育てれば、肉体的に男でも女性のようになるのか?また、少年期に同性のアレを加える風習がある地域では、ゲイになる割合は高いのか。結果はそうはならない。ほぼ性欲を抱く相手が異性か同性か両方かは、本能的に決まっているらしい。

ただフェチに関してはロングテールを描き、個人差が見られる。男性なら誰しも想像する通り世界共通で若さと巨乳が大人気である(笑)それはロングテールの頭の方で、そこから尻尾に向けては多種多様なフェチを示す。 このフェチに関してはどうやら少年期の刷り込みによって決まるらしい。病院で看護婦にアソコをいじられて勃起してしまった人は、以来、病院のベッドに座るたびに条件反射的に勃起してしまう人もいるとか・・・

素人モノが人気なのは若さだけでなく、内容はソフトなものであれプロでない色んな子が次々と出るのが、新しいもの・本物志向好きな男性の嗜好に合うかららしい(これも本能的なものである)

あと多くの男性は若い子好きだが、それに次いで熟女も好きらしく検索ワードでも人気ジャンルとか。このジャンルを海外ではミルフ(MILF)というらしい。Mother I’d like to f**kの略だそうです・・・その他、乳輪の大きさの嗜好は国ごとに異なる、足フェチ(小さい足を好む)の由来は妊娠期に女性の足が大きくなる傾向があることと関係があるのではなど、事細かに調査や考察がされています。

男性の性欲のことばかり書きましたが、女性の性欲についても論じられています。なぜ女性は男性より性欲が少ない傾向にあり、厳しい品定めをするのかについて随所に考察があります。そして 、意外なことにこの本の翻訳は女性なのです。本書の翻訳にたずさわるまで男性にはお馴染みの単語も知らなかったことなど、あとがきの感想も面白いです。

というか、素人モノが好きだとか月額課金してることをカミングアウトすると、周囲の人は笑ったり、あえて興味深そうに聞いたりするけど、本当はみんなコッソリ入ってるんだろう?嘘はやめよう!これを読んで思ったけど、自分の性的嗜好は極めて最大公約数的なノーマルなものだとわかりました!

性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか

性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか