愚かなハッカーたれ、利口なエンジニアよりも

自我と距離をおきたいプログラマの日記

サピエンス全史の話が仏教で締めくくられている件が感慨深い

サピエンス全史では人類史と共に人間の幸福とは何かをテーマとして扱っている。文明の発展、移動生活から定住生活といった人類の選択は、個人の幸福度の向上に繋がったかといったことに疑問を呈している。

サピエンス全史は20章で構成され、最後の20章は今の人類=サピエンスが、科学によって自然選択の進化の枠組みを超え、サピエンス以外の何かに自己進化する未来予想について書かれていて、やや話題が変わる。

つまり19章で個人の幸せとは何か?という大きなテーマに区切りがつく構成になっている。その締めくくりが仏教ブッダの話なのである。私自身、脳科学、心理学、進化論などの本を読んだ後に仏教の本を読み、ブッダの悟りについて私なりに理解をしたつもりでいた。その私の理解と著者の書いている内容が合致しており、とても感慨深く思えたのである。要約するとこのような話である。

ニューエイジ運動や生物学者は、幸せは外部の成果によって決まるのではなく、内なる感情によって決まる。だから富や地位など外部の成果の追求をやめて、内なる感情に耳を傾けるべきなのだと説く。しかしブッダは、その内なる感情の追求をもやめることだと説いた。事実、内なる感情に固執するほどに、その感情を満たすことを渇望するようになり苦しみを増す。”

結局のところ、外部の成果であれ内部の感情であれ、何かに固執するということが苦しみの源になるのだ。外部の成果、つまり富や地位を求めるのは、自己承認欲求を満たすためのものだろう。外部の条件は関係なくとも内部の感情を満たそうとするのも欲の追求である。どちらも自己への執着であることに変わりがない。

まさに「我執(がしゅう)こそが苦の源である」という仏教で説かれている話である。

最近、私は自分への興味が薄れていっていると感じる。投げやりな意味ではなく、個人と個人の間、個人と外部環境の間にボーダーなど本当はないという理解がそうさせているのだと思う。すべては繋がっているのだ。

仏教用語諸法無我というものがある。単独で成り立っているものは何もなく、すべては他との相関によって成り立っているという見解だ。肉体によって物理的に分離されているから、意識は独立したものだと考えがちである。それを自我や魂と呼んだり認識したりする。

しかし、近い将来、電子的に人の意識は繋がるかもしれない。人間が半サイボーグ化し、テレパシーのようなもので意思の疎通ができるようになれば、人の意思は独立したものという価値観は崩れ去るだろう。肉体によって分離されていた意識はシームレスになる。形どるもの全ては幻であり実体は無であるという仏教の色即是空の世界観にも通じる。

もしそうなれば、人々は多くの苦しみから解放されることになる。なぜなら、苦しみの根源は独立した自我がそこにあるという認識によるものだからだ。

 

サピエンス全史はKindle上下合本版がおすすめです!まだの方は是非。

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福